石毛宏典 独占インタビュー
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◆石毛宏典(いしげひろみち)プロフィール
1956年9月22日生まれ。千葉県旭市出身。駒沢大学を卒業後、プリンスホテルに入社。
都市対抗などに出場し、1980年にプリンス系列である西武ライオンズに入団。
94年にダイエーホークス(現ソフトバンク)に入団し、96年に現役を引退。
現在は講演活動、石毛野球塾(東京校、松山校、今治校)、城西国際大学客員教授、
野球評論家、愛媛ラディアンツ総監督などを務める。
◆石毛宏典オフィシャルブログはこちら
http://www.diamondblog.jp/official/ishige/
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──現状として、手応えはありますか?
ありますよ!! 第一期の子は今年起業します。静岡の沼津市から国東に来て2年の間、農業研修、地場産業の研修、市役所の研修を経て、ビニールハウスでネギを作る会社を興します。あ、「産業創出機構」は国東市と起業の第三セクターですから市役所の仕事も研修できるんです。その中で自分に合う種類の仕事をチョイスして起業すると。あとね、国東で研修をした子たちは起業のコンサルタントもできると思うんですよ。国東で培ったノウハウを例えば北海道、千葉、どこの土地でも活用できると思うんです。
──ネギで起業する方は野球はされていないのですか?
残念ながら、一期生ですから野球はしていません。野球は人数が必要ですから。実際、国東市には4球場ぐらいあるので、野球するには最高な環境なんですよ。国東市長も乗り気で「どんどん球場はお貸しますから」とおっしゃってますし。
1日2日は休んで昼間っから野球をしようよという感じでいいんです。そりゃ、僕の実家は農家ですから、農家の現実はようわかっとります(笑)。大変じゃない仕事はないですよ。繰り返して言いますが、メインは野球ではなくて、農業であり、地場産業の活性化ですから。まず生計をたててからの野球です。野球の割合がどれだけ占められるのか、先のことはわかりません。言葉は悪いですが、クラブチームは草野球に毛が生えたようなものです。これを踏み台にして野球でのしあがろうというのは無理ですからね。
今、国東に来ている若者たちには「まずビジネスのことを優先して考えろ」と言っています。そこがしっかりしてないと飯が食っていけないんですから。
プロ野球選手ではなくて、先生になりたかった
──野球塾の校長先生、大学の客員教授、若者たちへの指導など、先生づいていますね。石毛さんは以前から「教職をとって先生になりたかった」と各方面でおっしゃっていますね。
そうなんですよ。プロ野球に入ろうなんて、これっぽっちも思っていませんでしたからね。ただね、大学の野球部って、レギュラーは毎日、練習、練習、練習で、ユニフォームかジャージかパジャマしか着ない日々で、授業になんか出られませんから教職がとれるわけがない。試験の10日前からやっと学校に行かせてもらって、仲間にノートを写させてもらって乗り切りましたよ。
僕は経営学部だったんですが、142かな、144かな単位をとってちゃんと卒業して経営学士という証書をいただきましたよ。ただ、優は数えるしかなくて、良と可が半分ずつぐらい。
「石毛、おまえ可でいいか」と先生が聞くから、「単位をくれるなら、なんでもありがたいです」ってははぁーーと先生に頭を下げましたよ(笑)。
それでもね、1977年の全日本大学野球選手権で優勝して駒沢大学の名前を全国に知らしめましたから、費用対効果は抜群だったはずですよ(笑)。
──駒沢時代、1978年の東都大学野球の一部と二部の入れ替え戦の謎。駒沢大学vs日本大学の時、なぜ石毛さんが勝利投手になっているのですか? 石毛さん、ピッチャーでしたっけ???
ははははは(笑)。僕はピッチャーではないですよ。あの試合はね、ベンチ入りが25名で、そのうち5名がピッチャーなんです。で、5名とも投げてしまって、もうピッチャーがいなかったの。日大に負けると二部リーグに転落してしまうので、生き残るために最善な方法が石毛ピッチャーだったんでしょうね。同点の延長戦で、二回戦投げて被安打ゼロ、神宮球場の公式戦で勝利投手になったんですよ。まあ、キャプテンでもありましたし、肩は強かったですから。
自分をごまかすのが嫌で、練習は人の前でも陰でもやってきた
──本職がピッチャーではない勝利投手。極めて稀な現象ですね(笑)。石毛さんは西武でもチームリーダーでしたね。
はい。僕はキャプテンやリーダーになることが多いですね。自分で言うのもなんですが、僕は暗いタイプの人間ではないですし、まじめなヤツだと思っています。野球に関してはとくに。小中高大学とアマチュア野球時代もまじめでしたが、社会人野球、プロ野球時代はもっとまじめになりました。
自分をごまかすのが嫌で、練習は人の前でも陰でもやってきたと思います。それをチームメイトが見ていてくれて、石毛は俺たちより努力をしているからレギュラーだし、キャプテンでいいだろうと。そして、キャプテンだから石毛の言うことも聞こうという流れになるのでしょうね。
──リーダーは時として独裁者になりがちですし、奢りがでてくる人もいます。ご自分で振り返ってみていかがですか?
自分で言うのも恥ずかしいですが、俺の良い部分というか、、、キャラ的に石毛という人間を見た時に「石毛ってバランスいいよな」と思うんです。「俺が俺が」と前に出て行くタイプでもないし、言いたい時は言うけど、どうでもいい時は言わないし。喧嘩??
ああ、中学までは殴り合いはしていましたけど、高校からはペナルティも大きいのでやりませんでした。昔の野球選手ってたいていガキ大将ですからね(笑)。
野球理論など自分の分野では、意見を貫き通します。でも知らないことは「わかりません、不得手です」と正直に言いますし、「必要ならば学びます」と言う素直さも、僕は持っていると思います。
広岡さんに「ごめんなさい」と謝って、「教えてください」と頭を下げた
広岡さんが監督に就任した時に「おまえが石毛か。へたくそだな!!」といきなり言われましてね。僕が1年目にすごい数字を残して新人王になった(※打率3割)翌年ですから「なにぅぅお? ざけんな。おまえなんか口聞いてやるもんか」と思ってぷいっとしていたけれど、広岡さんは今までとは違う指導方法だったし、教えてもらいたいから、「ごめんなさい」「教えてください」と頭を下げたら教えてくれるようになったんです。広岡さんとはそんな出会いでしたねえ。
まあ、広岡さんは僕の性格を読んでいたのか、僕を上達させたくてそんなことを言ったのかわかりませんけど、僕はうまくなりたいから頭も下げましたし、その指導のおかげで40歳まで現役で野球ができたわけですからね。
──広岡監督との心温まるエピソードですね。もっと教えてください。
西武に入って3年目、広岡さんに「石毛、ゲームの前にみんなの前で毎回1分間しゃべれ」と言われたんです。僕が26、27歳の時で、まだチームリーダーではなかったころの話です。あの経験でしゃべることはけっこう鍛えられました。
テーマ? いろいろです。ノックが終わって、みんながベンチ裏に入って、監督の諸注意が終わったら「じゃ、石毛」って呼ばれて1分間話す。ネタを探すのが大変でしたよ。本、週刊誌、新聞を読む、映画を観る、いつもなんかネタがないかなってアンテナを張っていました。
──どんな着地点の話をされたのですか? ゲームの前に鼓舞するような話とか、「感動モノ」とか。そもそも、なぜ広岡監督は1分スピーチを石毛さんに命じたのでしょう?
田淵さん、東尾さんというベテランの先輩もいる、同期もいる、後輩もいる前ですから「こういうふうにしなきゃいけないだろう」という話はしませんでした。「昨日観た映画でこんな場面があって、俺はこう感じた。野球に置き換えるとこうだと思ったから、今日のゲームはその気持ちで戦おうと思ってます」とか、自分に問いかけるような物の言い方をすると、仲間が素直に聞いてくれたような気がしています。広岡監督が俺に命じた理由は・・・。なんなのでしょうねえ、、、。わかりません。
まあ、野手で、西武生え抜きで、3年目の選手で、ちょうど中堅どこでゲームにも出ている時期でしたから、ちょうど良かったんじゃないですかね。
プロ野球に入っていなかったら、プリンスホテルの支配人になっていた。いや、社長になっていたかも!!
──周囲が見渡せる、状況判断ができるのは、ホテルマンとしての経験も活きていませんか? 石毛さんはどんなホテルマンだったのですか?
あー、活きていると思いますよ。僕は東京プリンスホテルに勤務していましてね。クリスマスディナーショーは岸洋子さん、五木ひろしさん、越路吹雪さんが出演された年でした。レコード大賞なんかも東京プリンスでやってましたねえ。松田聖子ちゃんや河合奈保子ちゃんがデビューした年(※1980年)だったなあ。「小さい女の子たちだなあ」
なんて、仕事中に見ていました(笑)。
で、僕の仕事ぶりを見ていた支配人が「おまえは立派なホテルマンになれる」って褒めてくれました(笑)。僕はプリンスホテル野球部の一期生なんですけど、当時の一期生の仲間は全員各プリンスの支配人を勤めましたからね。プロ野球に入っていなかったら、当然支配人になっていたと思いますよ。いやー、社長をやってたかもしれないな(笑)。
──「プロ野球に入るつもりはなかった」と、いろんなところで発言されていますよね。
はい。先生になりたいという夢がありましたからプロ野球なんか考えてもいませんでした。でも親父とおふくろが「プロに行ける力があるのになぜ行かないんだ。行けばお金になるのに」って言うんです。僕の実家は農家でして、大学に行かせるのは大変でしたから「4年間おまえに使ったお金を契約金で返せ」って(笑)。それに、僕は次男坊ですから、農家の次男坊は、家を出て行かなければならないんです。
──プロになる気もないのに日本一を何度も体験されましたね。千葉県旭市の大スターですね。
それはねえ、いい時はいいですけど、エラーなんかしたらめちゃくちゃ叩かれるわけですから、いい時ばっかりじゃないですよ。僕、旭市の名誉市民になってるんですけど、僕の中学の時の校長が市長になった時期がありましてね。「石毛、ちょっと帰ってこい」と電話がかかってきたので「はい!!」って帰省したら「おまえ、今日から旭市の名誉市民ね」だって。ずいぶん簡単だなと思いましたけどね(笑)
裏切られた時に思う。「この人間を見抜けなかったのは自分だ」
──人生を振り返って、最大のピンチはいつでしたか?
最大のピンチ、、、まだないですねえ。なんとか飯は食えているし。僕は長所があっさり。短所がさっぱり。いや、逆なのか? 長所がさっぱり、短所があっさり。そんなかんじなんですよ、僕。
別れた女は一度も追ったことがない(笑)。恋愛? してないですよ、女房がいるもん。恋はしたいというか、、、(モゴモゴ)、、微妙ですねえ。ただ言えるのは雄としての本性はまだ持っているような気がします。
楽観的? んー、一応悩んだりはしますよ。でも、端から見て挫折に見えるようなことも、自分では挫折と感じませんし、「石毛、かわいそうだなあ」って思われるような時も、自分ではなんとも思っていないと思います。僕にはそのあたりの「鈍感力」があると思います。
裏切られた時は「しゃーないわな、俺に力がなかったからだ」って思うんですよ。「俺がもっと賢かったらこんな裏切りはなかっただろう、もっと違う立ち回り方があったんだろう」とかね。「自分に知識がなかったり、力がなかったからこうなったんだろう」と考えるんです。「この人間を見抜けなかったのは自分だ」と。
──冷静ですね。けっして「誰か」「何か」のせいにしない。
今までたくさんの方と名刺交換をさせていただきましたし、スポンサーになってくださるような方もいます。ただ、僕は自分からすり寄っていくのが好きではないです。「冷たいじゃないか、電話かけてこいよ。飲もうぜ」って言ってくれる人もたくさんいるんですけど、行けば飲み食いさせてくれるのでしょうけど、遠慮するようなところが自分にはありますね。甘えになるような気がして。基本的に、いつも一人で生きていける準備だけはしておきたいなと思ってます。
譲れない局面では我を通すタイプですから、案外、頑固だとか偏屈だとか思われているのかもしれません。僕自身は自分のことを素直だと思っていますよ。でも先輩方にしたら「なんであいつは頭を下げに来ないんだ」と思っているかもしれません。女房にも言われましたよ。「あなた、頭を下げて現場に帰ろうとは思わないの?」と。