放送作家 内村宏幸独占インタビュー
内村宏幸さん プロフィール
熊本県人吉市出身。職業は放送作家。
これまでに
「オレたちひょうきん族」「夢で逢えたら」「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」
「ダウンタウンのごっつええ感じ!」「笑う犬」「内村プロデュース」「とぶくすり」
「リンカーン」「サラリーマンNEO」等、数々のバラエティ番組を手掛けている。
ウッチャンナンチャンの内村光良さんは従兄弟。
マセキ・タレントゼミナールでは講師を務める。
──放送作家という職業ですが、きっかけというのは?
ウッチャンナンチャンの内村光良が従兄弟なんですけど・・・
上京して、当時一緒に住んでまして、彼がウッチャンナンチャンとしてデビューすることになったんですね。ネタ作りなんかをウチでやってたんですけど、僕も大学生で時間があったので、それを最初は見ていたんですけど、途中から口を出すというか参加するようになったんです。
それから彼らがどんどん売れて仕事が増えてきて、それまで放送作家という仕事があるのを知らなかったんですけど、そういう仕事を知って、いつの間にか引っ張られるようにこの仕事に入ったっていう感じです。
──作家として参加したというより・・・
そうです、そうです。
単純に傍で見ていたっていう感じです。
──デビュー当時から放送作家さんが付いているっていうケースって多いんですか?
どうなんですかね。
僕も今考えると、あまりなかったかのもしれないですけど・・・
でも、いることはいるんでしょうね。若手芸人さんを客観的に見られるっていうか、単独ライブをやるときに手伝ってくれるような。
昔のことは分からないけど、今はネタを作るときに誰かのアイデアをもらうみたいな一緒に考える人はいますよね。僕はそんなに意識はしてなかったですけど、とにかく時間があったので(笑)
ウッチャンナンチャンの内村光良が従兄弟なんですけど・・・
上京して、当時一緒に住んでまして、彼がウッチャンナンチャンとしてデビューすることになったんですね。ネタ作りなんかをウチでやってたんですけど、僕も大学生で時間があったので、それを最初は見ていたんですけど、途中から口を出すというか参加するようになったんです。
それから彼らがどんどん売れて仕事が増えてきて、それまで放送作家という仕事があるのを知らなかったんですけど、そういう仕事を知って、いつの間にか引っ張られるようにこの仕事に入ったっていう感じです。
──作家として参加したというより・・・
そうです、そうです。
単純に傍で見ていたっていう感じです。
──デビュー当時から放送作家さんが付いているっていうケースって多いんですか?
どうなんですかね。
僕も今考えると、あまりなかったかのもしれないですけど・・・
でも、いることはいるんでしょうね。若手芸人さんを客観的に見られるっていうか、単独ライブをやるときに手伝ってくれるような。
昔のことは分からないけど、今はネタを作るときに誰かのアイデアをもらうみたいな一緒に考える人はいますよね。僕はそんなに意識はしてなかったですけど、とにかく時間があったので(笑)
──そもそもウッチャンナンチャンさんは学校入ったときからお笑い芸人を目指していたのですか?
もともとは映画の専門学校(日本映画学校:映画監督の今村昌平が開校した横浜放送映画専門学院を前身とし、日本映画大学の母体となった。なお日本映画大学への改組移行により2013年3月をもって閉校が予定されている。)なので、内村は映画監督で、ナンチャンは俳優を目指して入ってきたんですよ。
で、俳優科っていうところに入って、そこに漫才のカリキュラムがあったのが最初なんです。
今村昌平先生が、「今の役者を目指している人はお笑いもやらなきゃいけない」っていう方で、講師として内海桂子・好江師匠が行ってたんですよ。
その授業で、ウッチャンナンチャンのことを「この人たち面白い」って言ってくれて、「卒業してから行くところが無いんだったらウチの事務所に来なさい」って。
それでマセキに入って、好江師匠が当時たまたま“お笑いスター誕生!!”(日本テレビ製作のお笑いオーディション番組)で審査員をやっていた関係で「あなたたち面白いから、ちょっと出てみなさいよ」って声を掛けてくれて出演したのがきっかけなんです。
──それが始まりなんですか?
そうなんですよ、全てが。
卒業の思い出作りみたいな感じで、軽く出たんですよ。
僕もその時はお客さんとして観に行ってました(笑)
──一緒に作ったネタですよね?
その時の番組は何本撮りとかっていう感じだったので、何本もネタを持っていかないとならなかったんですよ。
その時から、なんとなく一緒にやってました。
当時は“なんか面白いそうじゃない?”っていう感じだけでしたよ。
未だ、学生のノリだったのでプロとしてやっていこうだなんて感じじゃなかったですよね(笑)
もともとは映画の専門学校(日本映画学校:映画監督の今村昌平が開校した横浜放送映画専門学院を前身とし、日本映画大学の母体となった。なお日本映画大学への改組移行により2013年3月をもって閉校が予定されている。)なので、内村は映画監督で、ナンチャンは俳優を目指して入ってきたんですよ。
で、俳優科っていうところに入って、そこに漫才のカリキュラムがあったのが最初なんです。
今村昌平先生が、「今の役者を目指している人はお笑いもやらなきゃいけない」っていう方で、講師として内海桂子・好江師匠が行ってたんですよ。
その授業で、ウッチャンナンチャンのことを「この人たち面白い」って言ってくれて、「卒業してから行くところが無いんだったらウチの事務所に来なさい」って。
それでマセキに入って、好江師匠が当時たまたま“お笑いスター誕生!!”(日本テレビ製作のお笑いオーディション番組)で審査員をやっていた関係で「あなたたち面白いから、ちょっと出てみなさいよ」って声を掛けてくれて出演したのがきっかけなんです。
──それが始まりなんですか?
そうなんですよ、全てが。
卒業の思い出作りみたいな感じで、軽く出たんですよ。
僕もその時はお客さんとして観に行ってました(笑)
──一緒に作ったネタですよね?
その時の番組は何本撮りとかっていう感じだったので、何本もネタを持っていかないとならなかったんですよ。
その時から、なんとなく一緒にやってました。
当時は“なんか面白いそうじゃない?”っていう感じだけでしたよ。
未だ、学生のノリだったのでプロとしてやっていこうだなんて感じじゃなかったですよね(笑)