アーサー・ホーランド独占インタビュー
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アーサー・ホーランドオフィシャルブログはこちら
http://www.diamondblog.jp/official/arthur-h/
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巨大な十字架を担いで歩く姿が各国のメディアでも取り上げられた「不良牧師」アーサー・ホーランドさん。牧師ながら俳優やモデルもこなすアーサーさんに、牧師になったいきさつや「十字架行進」をはじめとした活動についてをたっぷりお伺いしました。神を身近に感じられるようになるロングインタビュー!
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格闘技との出会い、そしてそれが与えてくれたもの
——お若い頃にレスリングや柔道をされていたんですよね。
祖母に育てられていた頃、親父が祖母に「何か運動をやらせてやってくれ」とは言っていたみたいなんです。当時、友達が柔道をやっていたことから興味はあったんですが、本格的に格闘技をやり始めたのは東京で両親と暮らすようになってからです。
祖母との下町の暮らしとはまったく違って…それまでは「おばあちゃんに愛されたい」という願望はなかった。だって愛されているのがわかっていたから。でも親父には愛されているという確信がないから「愛されたい!」という願望があったんですね。アメリカ人で海軍兵士だった親父はケンカっ早くて短気で、スポーツなら「2番や3番じゃなくて1番を取れ!」というタイプ。だから、親父に受け入れられようとスポーツを頑張るようになったんです。
親父に気に入られるために頑張った結果、強くなっていって、高校時代にはインターハイに出たり大学生になったらオリンピックを目指すようにもなっていたんです。
——「愛されたい」という想いが格闘技をする上で強い原動力になっていた?
そうですね。それで高校卒業後に、アメリカの柔道チームでオリンピックに出たいと渡米したんですが、それまでアメリカで暮らしたことはほとんど無かったから、生活はもちろん、練習スタイルも違って戸惑った。でも柔道では中量級で全米2位にはなりました。
柔道と似たロシアの国技で「サンボ」という競技があるんですけど、アメリカで2回優勝して世界選手権の代表選手に選ばれたこともありました。でも、ある時負けて、首の骨を折って半身不随になる寸前になってしまって…。
——その後、格闘技はどうされたんですか?
結果的には格闘技から離れるんですが…ケガすることや負けることが自分のやっていることを問うきっかけになるんですよね。ビジネスもそうですけど、人間ってうまくいっている時はあまり考えないし深刻にもならない。負けて悔しいとか屈辱とか…辛酸を舐めると「誰とも会いたくない」「ひとりになりたい」となる。でも、エーリッヒ・フロムというドイツの精神分析の研究者も「ひとりになる能力は愛する能力の前提である」と言っているのだけど、やはり、人間って孤独になることも必要なんですよね。集団社会に身を置いているけど、ひとりになって己を見つめる時間が必要になってくるんです。
——その時間で見えてきたものは何だったのでしょう?
試合に負けて頭にきた僕は、カリフォルニアのハンティントンビーチでひとり、考えごとをしていたんです。後ろを振り返ると人間が作った工場が煙を上げているけど、前を向けば目の前には自然が広がっていて、波の音がしている。鳥のさえずりが聞こえる、太陽が輝いている…そんな自然の姿に「何これ!?」と思った。“当たり前のこと”に気づいていなかったことに、この時気づいたんです。「忙しい」という字は“心”を“亡くす”と書くけど、忙しく生きすぎていることに気づいた。
日本には「間」の美学がありますよね。「人間」は“人”の“間”、他にも、茶の間、奥の間、床の間、間合い…夏目漱石や鴨長明、宮本武蔵にしても先人達はみな、忙しい時に意識的に「間」を作ったんですよね。この時の僕はまさに「間」を取らされていたんです。そして見えている自然の中に見えない何かがあるんじゃないかと思った。「神様って本当にいるのかなあ」と思って、それを求めていたんです。
——お若い頃にレスリングや柔道をされていたんですよね。
祖母に育てられていた頃、親父が祖母に「何か運動をやらせてやってくれ」とは言っていたみたいなんです。当時、友達が柔道をやっていたことから興味はあったんですが、本格的に格闘技をやり始めたのは東京で両親と暮らすようになってからです。
祖母との下町の暮らしとはまったく違って…それまでは「おばあちゃんに愛されたい」という願望はなかった。だって愛されているのがわかっていたから。でも親父には愛されているという確信がないから「愛されたい!」という願望があったんですね。アメリカ人で海軍兵士だった親父はケンカっ早くて短気で、スポーツなら「2番や3番じゃなくて1番を取れ!」というタイプ。だから、親父に受け入れられようとスポーツを頑張るようになったんです。
親父に気に入られるために頑張った結果、強くなっていって、高校時代にはインターハイに出たり大学生になったらオリンピックを目指すようにもなっていたんです。
——「愛されたい」という想いが格闘技をする上で強い原動力になっていた?
そうですね。それで高校卒業後に、アメリカの柔道チームでオリンピックに出たいと渡米したんですが、それまでアメリカで暮らしたことはほとんど無かったから、生活はもちろん、練習スタイルも違って戸惑った。でも柔道では中量級で全米2位にはなりました。
柔道と似たロシアの国技で「サンボ」という競技があるんですけど、アメリカで2回優勝して世界選手権の代表選手に選ばれたこともありました。でも、ある時負けて、首の骨を折って半身不随になる寸前になってしまって…。
——その後、格闘技はどうされたんですか?
結果的には格闘技から離れるんですが…ケガすることや負けることが自分のやっていることを問うきっかけになるんですよね。ビジネスもそうですけど、人間ってうまくいっている時はあまり考えないし深刻にもならない。負けて悔しいとか屈辱とか…辛酸を舐めると「誰とも会いたくない」「ひとりになりたい」となる。でも、エーリッヒ・フロムというドイツの精神分析の研究者も「ひとりになる能力は愛する能力の前提である」と言っているのだけど、やはり、人間って孤独になることも必要なんですよね。集団社会に身を置いているけど、ひとりになって己を見つめる時間が必要になってくるんです。
——その時間で見えてきたものは何だったのでしょう?
試合に負けて頭にきた僕は、カリフォルニアのハンティントンビーチでひとり、考えごとをしていたんです。後ろを振り返ると人間が作った工場が煙を上げているけど、前を向けば目の前には自然が広がっていて、波の音がしている。鳥のさえずりが聞こえる、太陽が輝いている…そんな自然の姿に「何これ!?」と思った。“当たり前のこと”に気づいていなかったことに、この時気づいたんです。「忙しい」という字は“心”を“亡くす”と書くけど、忙しく生きすぎていることに気づいた。
日本には「間」の美学がありますよね。「人間」は“人”の“間”、他にも、茶の間、奥の間、床の間、間合い…夏目漱石や鴨長明、宮本武蔵にしても先人達はみな、忙しい時に意識的に「間」を作ったんですよね。この時の僕はまさに「間」を取らされていたんです。そして見えている自然の中に見えない何かがあるんじゃないかと思った。「神様って本当にいるのかなあ」と思って、それを求めていたんです。
牧師になるきっかけは、ほんの小さな出来事だった——
——その時間で見えてきたものは何だったのでしょう?
そんな時間を1週間くらい過ごしていた頃に、たまたま柔道の岡野功先生からお電話をいただいて…。奥様がアメリカ人で実家がサンディエゴにあって、そこにいるから遊びに来いって…。
伺ったら、「俺の義父が牧師をやっていて、明日メッセがあるから教会に来い」と言われたんです。「ええええっ!?」と躊躇したんですけど、大先生が来いと言うからには行かないといけないから(笑)。
行ってみたら、教会といっても一般的な教会とは違って、ステンドグラスとかそんなものはなく「モービルホーム」という、お年寄り達が週末にレクリエーションを楽しむプレハブの建物といった感じ。信仰深い老人達がメッセージ聞いたり賛美歌歌ったりするんだけど、こっちは何言っているかもわからない。あくびしている間に終わっちゃった感じだったんです。
その後に親睦会なるものがあって、お年寄り達に混ざってドーナツ食べたり話したりしてたんだけど、ふと、彼らの目がとても澄んでいることに気づいたんです。話せばとても柔和で優しくてとても魅力的で…この前まで見ていた自然の姿とだぶって見えた。自然とお年寄りの姿。その点と点を結んだ先に、イエス・キリストの姿が浮かんだんです。
——それがキリストを信じるきっかけに…?
決定的なきっかけは、その中のある老牧師に「アーサー、あなたは神に愛されているよ。人間には“罪”というものがあって、それは人を殺めたり傷付けたりということではなく、本質から離れて生きているということが罪。本質からブレていることが罪なの。ブレている心を修正するために神がある。ジーザスは見えないけれど、今も生きて、スピリットでお前の心に入って働きかけているんだよ。心を開いて、この存在を迎え入れたなら、今まで囚われていた自責の念や『自分はダメだ』というところからブレイクスルーして、魅力的な存在として輝いて、本来神が与えてくれた存在として生きていける」と言われたことですかね。「そんなうまい話があるのか!? 信じて、魂が救われるなら儲けもんだ…! 何も損しないし」と思って、すぐさま「信じます!」と言いました。そして洗礼を受けたんです。
——その時間で見えてきたものは何だったのでしょう?
そんな時間を1週間くらい過ごしていた頃に、たまたま柔道の岡野功先生からお電話をいただいて…。奥様がアメリカ人で実家がサンディエゴにあって、そこにいるから遊びに来いって…。
伺ったら、「俺の義父が牧師をやっていて、明日メッセがあるから教会に来い」と言われたんです。「ええええっ!?」と躊躇したんですけど、大先生が来いと言うからには行かないといけないから(笑)。
行ってみたら、教会といっても一般的な教会とは違って、ステンドグラスとかそんなものはなく「モービルホーム」という、お年寄り達が週末にレクリエーションを楽しむプレハブの建物といった感じ。信仰深い老人達がメッセージ聞いたり賛美歌歌ったりするんだけど、こっちは何言っているかもわからない。あくびしている間に終わっちゃった感じだったんです。
その後に親睦会なるものがあって、お年寄り達に混ざってドーナツ食べたり話したりしてたんだけど、ふと、彼らの目がとても澄んでいることに気づいたんです。話せばとても柔和で優しくてとても魅力的で…この前まで見ていた自然の姿とだぶって見えた。自然とお年寄りの姿。その点と点を結んだ先に、イエス・キリストの姿が浮かんだんです。
——それがキリストを信じるきっかけに…?
決定的なきっかけは、その中のある老牧師に「アーサー、あなたは神に愛されているよ。人間には“罪”というものがあって、それは人を殺めたり傷付けたりということではなく、本質から離れて生きているということが罪。本質からブレていることが罪なの。ブレている心を修正するために神がある。ジーザスは見えないけれど、今も生きて、スピリットでお前の心に入って働きかけているんだよ。心を開いて、この存在を迎え入れたなら、今まで囚われていた自責の念や『自分はダメだ』というところからブレイクスルーして、魅力的な存在として輝いて、本来神が与えてくれた存在として生きていける」と言われたことですかね。「そんなうまい話があるのか!? 信じて、魂が救われるなら儲けもんだ…! 何も損しないし」と思って、すぐさま「信じます!」と言いました。そして洗礼を受けたんです。