──6月4日にリリースされる50周年記念曲第二弾の新曲「越後に眠る」は久々になかにし礼さんが作詞されたのですね。
第一弾の「蛍前線」は40年来の親友でもあるさだまさしさんに作詞作曲していただいたんですね。さて第二弾はどの先生にお願いしようか・・・と事務所で話していた時に「なかにし礼先生がいいね」とみんなで話していたのですが、当の礼さんが「僕はもう曲は書かない!!」と公言していらっしゃるし、大病をされて奇跡の生還というか、完治された後でしたから『無理だろうね・・・』と行動を起こしていなかったんです。
そんな話をした4~5日後のことですよ。共通の知人が「なかにしさんが、さっちゃんから電話がほしいと言ってたよ」と言うんです。事務所のスタッフたちに「誰か礼さんに連絡した?」と聞いても、一切していませんと。
それで礼さんに電話をしてみたら「幸子、元気か?幸子の次の曲、俺書くから」って。えええーっ!!となっちゃって。
──曲は書かないと断言していたなかにし礼さんが!!しかもすごいご縁ですね。
本当に鳥肌がたつほどびっくりしましたよ。久々に礼さんとお会いしてお食事をしましてね。ご病気が完治したこと、ネット配信の音楽のこと、レコード業界が新しく変わる過渡期であり、世代交代の時期でもあること・・・いろいろお話しをしました。
「小林幸子の存在がずっと気になっていた。幸子の歌は俺が書くしかないだろう」と言ってくださって、ビックリしましたし、うれしかったですよ。
「僕はね、一度死んだ。そして帰ってきた。そういう歌を作るから。幸子、君も死んだ気になって宇宙に行こう」。礼さんはそうおっしゃいました。
そして最初にできたのがカップリングの「星に抱かれて」だったんです。礼さんは「アナと雪の女王」を何度もご覧になって、宇宙規模で考えてくださったんですって。当初はこちらがA面の予定だったんですよ。
──えっ。興味深いお話ですね。宇宙規模の「星に抱かれて」と「越後に眠る」のせめぎあいがあったのですね。舞台裏をお聞きしたいです!!
これがおもしろくてね。そもそも、礼さんに「幸子、もう一曲はどんなのが欲しい?」と聞かれた時に、「先生、故郷の歌を歌いたいです」って言ったら「俺はご当地ソングは書かない。石狩晩歌が最初で最後だ」と、きっぱり言われちゃって(笑)。
でも数日経ったある日、「越後=幸子だからなあ」と凄く考えてくださって「越後に眠る」の歌詞をくださったんです。そして「越後に眠る」の歌詞を見た時、私は号泣しました。「人の物語は/つらいことが続くけど/終わりよけりゃ/生きてきたのも/無駄じゃない」って。。。なかにし先生じゃないと書けませんよ、こんな凄い歌詞。
私もスタッフも「越後に眠るをA面にしましょうよ~、しましょうよ~」と粘り強く言っていたんですけど、礼さんは『いや、星だ』と。
でも、レコーディングの日私が唄ったのを聞いて、最後の最後にボソッと・・・。
「幸子。・・・やっぱり越後、だな」と言ってくださったんです(笑)。
とにかく不思議なことがたくさん続いて生まれた大切な曲です。
今年は私がデビュー50周年で、1964年に新潟地震が起こって50年目の年でもあり、新潟中越地震から10年目と節目の年なんですね。先日、新潟県民栄誉賞をいただいたこともあって、私はどうしても故郷の歌を歌い、感謝を届けたかった。
タイトルには越後とついていますが、人それぞれの故郷の歌だと思うんです。故郷は母であり、母は故郷であり、故郷は命であるという歌詞なんですね。ご病気をされて、とことん「命というもの」をお考えになったから生まれた歌だと感じています。
節目の年に、不思議なご縁がつながってできた「越後に眠る」。多くの方にぜひ聴いていたただきたいです。
(取材/文 別府優希)
小林幸子(こばやしさちこ)
血液型:A型
生年月日:12月5日
出身地:新潟県新潟市
1953年新潟県新潟市生まれ。9歳の時にTBS「歌まね読本」に出演しグランドチャンピオンとなり、10歳で「ウソツキ鴎」でデビュー。79年「おもいで酒」が200万枚の大ヒットとなり、数々の歌謡賞を受賞。「もしかして」「雪椿」など多くのヒット曲を持つ。バラエティ、CM、ニコニコ動画など活躍の場は幅広い。2014年6月4日に50周年記念曲第二弾「越後に眠る」をリリースする。