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影山正美は1987年、富士スピードウェイでレースデビューを果たした。当時、既に若いドライバーがレースキャリアをスタートさせる登竜門として知られて いた富士フレッシュマン・シリーズに初めて参戦した時、影山は20歳だった。1989年に影山は日産ザウルスカップ(ジュニア・フォーミュラ)でフォー ミュラ・デビューを果たし、シリーズ初年度のフォーミュラ・トヨタ・シリーズにステップアップした。4戦中3勝の成績を収め、シリーズの初代チャンピオン となった。同じ年、影山は全日本F3選手権にも参戦し、91年と94年にはマカオGPにも参戦を果たすことになった。
高い完走率と1994年のシリーズ2位の成績を有望と見なされ、影山は当時、後にF1ドライバーとなるエディ・アーバインやハインツ・ハラルド・フレン ツェンなどがしのぎを削っていた全日本F3000選手権(後にフォーミュラ・ニッポンと改称)に参戦する機会を与えられた。1995年、ヨコハマ・アドバ ン・タイヤのワークス・ドライバーとしてシリーズに参戦。たちまち頭角を現し、第7戦の十勝では3位表彰台に上った。1998年にはシリーズ2位にランク し、シリーズにおけるキャリア中最高位の成績を収めた。 スタンディング・スタートにおける抜群の瞬発力は「ドルフィン・キック」と評され、安定した走りと攻撃性で日本を代表するトップ・ドライバーの一人となっていった。
1989年、影山は当時ツーリングカーの最高位とされていた全日本ツーリング選手権(グループA)に参戦した。また、1995年からの3年間、ヨコハマ・ アドバン・タイヤのワークス・ドライバーとして参戦した全日本ツーリングカー選手権(JTCC)においても、影山は将来のルマン24時間ウィナーとなるト ム・クリステンセンを相手に健闘を示した。
1990年から影山はN1耐久シリーズ(1995年にスーパー耐久シリーズと改称)に参戦し、1992年と2007年にはチャンピオンを獲得した。N1耐 久には毎年恒例となっている24時間レースがあり、十勝インターナショナル・スピードウェイで行われているこのレースに影山は8回参戦し、2度の優勝と3 度の2位を獲得している。それだけではなく、彼のチームは常に完走を果たしており、走りぬくことが難しいとされるこのレースにおいて、素晴らしい成績を収 めている。
グループAは体制を新しくし、1994年に全日本GT選手権と改称された(2005年に再びスーパーGTと改称)。影山はこのシリーズ開設より今日まで連 続して参戦を果たしている数少ないドライバーの一人である。1997年にはシリーズ2位となり、日産のワークスドライバーとなった翌1998年には元F1 ドライバーであるチーム・メイトのエリック・コマスと共に日産GTRでシリーズ・チャンピオンを獲得した。その後、2000年にシリーズ2位、2003年 にはシリーズ3位を獲得し、2004年に影山は通算9勝でGT最多勝ドライバーとして表彰されるに至った。2005年以降、影山は日産の若手ドライバー育 成及び車両開発プロジェクトの一翼を担うようになり、GT300クラスに350Zで参戦した。彼の高い開発能力はその他にも、韓国のハンコック・タイヤの 開発という任務を担うことを依頼され、2008年はハンコックのワークス・ドライバーとして参戦した。この年、影山は再びスーパーGTより表彰された。今 回はシリーズ最多出場ドライバーとして、111戦の参戦という功績を讃えられたものだった。
影山の海外での活躍には5回に及ぶルマン24時間レースへの参戦が上げられる。1996年にトヨタの若手育成プログラムの一員として初参戦を果たして後、 1998年と1999年には日産ワークス・チームの一員としてチーム・メイトである元F1ドライバー、鈴木亜久里と共に参戦した。影山は2000年、及び 2008年にもルマンに参戦し、第68回大会である2000年にはLMP1クラスで6位という参戦中最高位を獲得した。
2006年以来、影山はその卓越した技術と経験を後進に伝えることを依頼されるようになった。依然、自身のレース活動は活発に続けながらも、彼は日産レーシングスクールや日産、トヨタ、ホンダが展開するジュニア・フォーミュラ・シリーズであるフォーミュラ・チャレンジ・ジャパンで講師を務めるようになっ た。指導者として、影山は彼の後に続く者たちに手を差し伸べ、日本におけるモータースポーツ界の将来の発展に尽くしている。