肝芽腫の会
昨日、『肝芽腫の会』の集まりに参加させてもらってきました。
肝芽腫というのは小児ガンの一種で、俺が1歳のときに患ったものなんですが、肝芽腫は症例が多いものではないので、それについての知識が充分でなかったり、見落としてしまう医師も少なくないらしく、なので肝芽腫の子を持つ親御さんたちで連絡を取り合って情報を共有し、共に病気と戦っていきましょうという集まりが『肝芽腫の会』なんです。
俺が初めて会に参加させてもらったのは3年前の夏でした。俺は小さい頃からずっとプロ野球選手になりたいと思っていて、もしなれたら、多くの選手がやっているチャリティー活動、例えば『○○シート』という名目で子供たちを試合に招待するとか、そういうことをやりたいなぁと漠然と思ってたんですね。でもそう思い始めたのは、そりゃ子供の時分ですから、もちろん奉仕の精神というような、そんな崇高なものではなく、ただプロ野球選手がそういう活動をしている姿にも憧れたからという単純なものだったんですけどね。
それも野球選手という夢が叶わなかったことで一度は忘れかけましたが、プロ格闘技の選手として格闘技一本で食べていけるようになり、そして格闘技がテレビで放送されて世間に認知されていくに従って、俺もある程度のステージまで上がることができたら、プロ野球選手になれたらやりたいと思っていたチャリティー活動をやってみたいという思いが出てきました。じゃあ何をやったらいいのかな?と考えたときに、俺は幼い頃に肝芽腫を患った経験があるので、同じ病気にかかっている子供たちに何かできたらいいんじゃないかと。そしてそれを始めるときを、やっぱり大舞台で活躍している選手のほうが子供たちにやる気元気いわき!じゃなくて勇気を与えられるよなぁということで、当時、地上波のゴールデンでも放送され、人気番組のひとつとなっていたPRIDEの常連選手として定着することができたら、そこで始めてみようと、そう決めました。
それを内発的モチベーションのひとつとして研鑽を重ねていく中で、2005年にGRABAKAがパンクラスから独立。それからの半年間でPRIDEで3試合させてもらったことによって、何とかPRIDEを主戦場とすることができたのではないかという手応えを掴み、自分で決めたチャリティー活動を始めてもいい条件を満たしたと思ったので、いよいよ『肝芽腫の会』と連絡を取らせてもらおうと思いましたが、その前に自分の病気のこと、自分が病気になったときのことをもっと知っておいたほうがいいだろうと、父に自分の執刀医だった先生と連絡を取ってもらい、父と一緒に先生に久しぶりにお会いして、当時の話を色々と聞かせていただきました。
その会話の殆どは、先生と父が当時を懐かしむ昔話になっていたんですが、その中で父が最初に俺を連れて行った地元の病院では手に負えないと言われて目の前が真っ暗になったことや、その地元の病院の紹介で築地の国立がんセンターへ行き、執刀医の先生に診てもらったときに、助かる可能性はあると言ってもらえて希望の光が見えたときの喜び、俺の病状はかなり良くないものだったけど、当時は誰も思いつかず、なかなか支持もされなかったという執刀医の先生の術式によって俺が助けられたことを聞き、本当に自分がどれだけの大きな幸運に恵まれた結果存在しているのかということを実感しました。
先生には俺が中学生の頃まで、年に2度、定期検査という形で診てもらっていたんですが、よく「僕の跡を継ぐ医者になってくれたら嬉しいんだけどなぁ」ということを言われました。当時はプロ野球選手になることしか頭に無かったので完全にスルーしていましたが、今はそんな人生も悪くなかったんじゃないかなぁと思いますね。先生が救ってくれたこの命で、多くの人の命を救う。そんな人生も、いま俺が感じているものに負けないくらいのやり甲斐があっただろうなぁ。35という年齢だって、格闘技選手としては終わりが近いけど、医者としてはまだまだこれからっていうところに違いないですしね。まぁ俺の頭じゃ医者になるのは厳しかっただろうけどな。余談でした。
そうやって色々と話を聞き、病気に関する予備知識も得て、さぁいよいよ『肝芽腫の会』に連絡をするぞと思ったんですが、2005年の最後の試合で顎の骨を折ってしまって長期療養中だったときに連絡するワケにもいかず、じゃあいつするんだよと思ったときに、翌年にPRIDEでウェルター級のトーナメントをやるということだったので、ならばその初戦に招待するのがいいんじゃないかと、そこに狙いを定めました。どうせなら、自分がその大会の主役のひとりになれるときのほうがカッコ付きますからね。なのでその前哨戦的な意味合いのあった2006年4月の試合は、これを落としたら全てがダメになるという思いでかなり緊張しましたが、無事その試合をクリアし、俺にとってはプロ野球選手を夢見ていた小学生以来の念願であったチャリティー活動に踏み出すことができました。
そうして2006年6月の試合を前に、「これこれこういう格闘技をやっている、1歳のときに肝芽腫を経験した者なのですが、もしよろしかったら自分の試合に招待させて頂きたいと思い……」といった文面のメールを『肝芽腫の会』に送らせてもらい、突然そんな連絡をして、実際来てもらえるものなのかなという不安はかなりありましたが、嬉しいことに複数のご家族の方が来てくださいました。そして偶然にもPRIDEのスタッフの中に、そのご家族とお知り合いの方がいたこともあって、事は全てスムーズに運び、試合前に控え室まで皆さんで俺を激励に来てくれました。俺が勇気を与える存在になれればという思いで始めたことだったのに、逆に負けられない!頑張らなきゃ!という力を貰うことになり、面食らいながらも熱いものがこみ上げてきました。
このときは本当に胸がいっぱいになって、涙が止まらなかった。試合前の控え室で、前に書いた俺の人生の師である先生に身体のバランス調整をしてもらいながら、ずっと泣いてましたもん。また先生が「ああやって本当に来てくれて嬉しいよねぇ。アンタ、今日はもう本当に負けられないね。頑張らなくっちゃダメだよ」なんて言うもんだから、それでまた涙が出てくるんですよ。本当に絶対に負けられないけど、でも出番を前にしてこんなに泣いちゃってて大丈夫かな?と思いきや、小一時間後にはふざけた格好で初めての入場パフォーマンスをやったりしてるんですから、おかしなもんですよね。あの日はそうやって、初めて『肝芽腫の会』の方たちが試合に来てくれて、初めての入場もやって、そして試合も前評判の高かった未知の強豪相手にしっかり自分の戦い方で勝てたという、これまでで一番充実した日だったかも知れないですね。
ここまでまだ3年前までの思い出話しか書けていないけど、それでも充分長くなってしまったので続きはまた次回に書かせてクレヨンしんちゃん。今回書きたかったのはこの先のことなので、コメントは次回にまとめていただけたらと思います。
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